夢を、見た。

 小さい頃の、数少ない思い出の夢。

 広い庭。

 春風が気持ち良く、小鳥の囀りが綺麗だった。

―――兄様ぁ……。

 大好きだった。

 兄の笑顔が、声が、誰よりも好きだった。

―――、また転んだのか?

―――申し訳ありません、私が付いていながら……。

―――うわあぁぁん!!

―――全く……走っちゃ駄目だって、前にも言っただろ?

 兄さんが、私を叱り付けた事なんてなかった。

 泣く私を、兄さんは泣き止むまで頭を撫でてくれた。

―――、ほらヴァインが蒼白した表情で困ってるだろう?もう泣き止むんだ。

―――だって、だってぇぇ。

―――が泣き止んでくれないと、僕も悲しいな。

 大好きだった兄。

 優しく微笑んで、時には困った表情をして、何時も傍に居てくれた。

 兄が、大好きだった。

―――兄様、何処かお出かけするの?

―――何だ、もう起きたのか?

―――兄様が起こしたんだよ。

―――あぁ、ドアを閉める音で起きたのか。もう少し寝てても良いんだよ?

―――兄様が出かけるなら、私も一緒に行く。

 両親の事なんて、当時の私には頭になかった。

 だから、私にとって兄は何よりも大切な存在だった。

―――はヴァインとお留守番だよ。

―――えぇ!

―――我儘は言わない。そう、前も約束しただろ?

―――お仕事なの?

―――そうだね、仕事に近いかもしれない。でも、仕事と言うよりもっと大切な事かな。

―――すぐに帰って来る?

―――時間がかかるかもしれないけど……ちゃんと帰って来るよ。

―――王、そろそろ行かねば……。

―――分かったよ、ヴァイン。、これだけは覚えておくんだ。は1人じゃないし、の事を何時も心配してくれる人が居る。その人達の事、絶対に忘れちゃ駄目だ。

―――兄様、それ昨日も言ってたよ?

―――そうだね。それから、誰かが泣いていたらその人の涙を受け止められるような、そんな優しい人にもなるんだよ?僕がにして来たように、泣いていたら受け止める。出来るね?

―――ヴァインは泣かないもん。

―――ヴァインじゃなくて、外の世界の人だよ。何時かも、外の世界を見る事になる。

―――王。

―――あぁ、分かってる。、それじゃちょっと出かけて来るから。

―――早く帰って来てね、兄様。そしたら遊んでね?

―――がまだ僕と遊ぶなら、ね。

 玄関を出て、車に乗り込む兄の姿を見た。

 何時もなら白のコートを着て行くのに、その時に限って黒のコートを羽織っていた。

 それが何を意味するのか、その時の私には理解する事なんて出来なかったけど。

 隣にヴァインが居て。

 私の手をしっかり握り締めていた。

―――ヴァイン?

 見上げると、ヴァインは悲しそうな表情で兄を見ていた。

 何時もなら、兄と一緒に居るのに。

 そう、その時は思った筈だ。

 大好きだった兄。

 夜になっても、次の日になっても、1週間が経っても、兄が帰って来る事も連絡が来る事もなかった。

 そしてようやく気付いた筈だ。

―――ヴァイン………兄様、もう帰って来ないのかな?

 玄関を出て、帰って来る筈もない兄の姿を夢見ていた。

 帰って来ない兄。

 消えてしまった兄。

 私は兄を、探したかった。

 兄を、見付けたかった。

 だから私は、外の世界に翼を広げた。

 あの時、翼を広げて旅立った兄のように。

 そして私は今、外の世界に居る………。






「……だ………れ……?」

 小さな声が、キラの耳に入った。

 暗闇。

 微かに動いた身体。

 暗闇。

 薄っすらと見える世界。

「………キ……ラ………?」

 名前を呼んで、目を見張ったような気がした。

 驚くのも無理はない。

 けれど、去る事も出来なかった。

「泣いてる……の?」

 上半身を起こして、そっと手が頬に触れた。

 俯いていた顔を、少しだけ上げる。

 暗闇。

 慣れた筈なのに、視界がぼやける。

 涙。

 止め処なく流れる、滴。

「……おし…………えて………」

 君にとって、僕と言う存在は何を意味するのか。

 君にとって、僕らクルーはどう言う存在なのか。

 君にとって、この世界はどう瞳に映っているのか。

 君にとって………君は一体何なのか。

「君は……一体、誰…………なの?」

 頬に触れていた手が、一瞬で冷たくなったような気がした。

 この世界にもし、時の番人がいるとするのであれば、私はその人に言うだろう。

 彼、キラ・ヤマトの時間を早めて下さい、と。

 この苦しみ、悲しみから、早く解放させたい。

「………私は………」

 涙を流す少年。

 戦いに傷付いた、戦士。

 心が砕けた、子供。

 私はそんな人を、簡単には救わない。

「私は」

 私は、簡単に人の答えを導かせない。

 私は、挫けた人にヒントを上げるしか、しない。

「私は、

 この世界にも。

 此処のクルー達にも。

 ザフトにも。

 私は自分の答えを簡単には言わない。

 それは、私だけの答えだから。

「この世界に生きる、唯の人間よ」

 世界。

 分かってる。

 君は、そう言う人だ。

「………良かった………」

 君は、僕の知ってるだ。

 欲しい言葉をくれる。

 それでも、僕には答えを絶対に言わない。

 僕だけじゃない。

 の周りに居る人にも。

 の友達のカガリにも。

 君は、絶対に欲しい言葉をくれる代わりに、答えを言わない。

 僕の知る、この世界のだ。

「有難う」

 君の優しさに、有難う。

 君の強さに、有難う。

 君の勇気に、有難う。

 君の全てに、有難う。








 限界なのかもしれない。

 そう感じるようになったのは、アンディに捕まった時からだった。

 もしかしたら、もっと前からそう感じていたのかも。

 キラと接触してあの時、何故自分は言葉を交わし、カガリを彼に任せたのか。

 無意識の中で、彼らはあの人の魂によって導かれたのだと、思ったのかもしれない。

 止め処なく流れる涙。

 汚れている手で救い上げると、キラは目を細めて瞳を揺らした。

 私もキラも、まだ子供だ。

 汚れてしまった手で、彼の頭を撫でる。

 安心したように、キラは瞳を閉じた。

 彼の手も、私は汚させた。

 見えない真っ赤な血。

「……ごめん、……」

 撫でていた手を止めると、キラは薄っすらと目を開けて私を見上げる。

………疲れてる筈なのに……」

 疲労を感じていないといえば嘘になる。

 だが、夜はまだ長い。

「ろくに寝てないなら、自室で寝れば良いのに」

「……うん……」

 キラは、私のベッドの中で横になっている。

 私は枕元に腰をかけて、キラを見下ろしていた。

って……、良い匂いがする」

「何を突然」

「凄く安心するんだ、の匂いって………シャンプーが違うからかな」

 確かに、自分が使っているシャンプーは軍の支給品とは違う。

 アンディに用意して貰った、お気に入りのシャンプーだ。

「ごめんね、。ごめん……ごめん、なさい」

 瞳を閉じて、また滴を零す。

「もう良いから。今は、ゆっくり寝なさい」

 涙を拭きとって、また頭を撫でる。

 昔、兄が私にしてくれたように。

「………ごめんね……有難う………」

 何度目の言葉だろう。

 君が私に言うその言葉は、私にとって苦痛でしかない。

 それを分かっているのか、知らないのか。

 どちらにせよ、君は私にそんな言葉を言ってはいけないのに。

 安心しきった表情。

 小さな寝息が、耳を掠めた。

 撫でていた手を止め、ゆっくり立ち上がる。

 部屋を見渡し、机の上に目を止めた。

 差し込まれていなかった筈のディスクが、パソコンに半分だけ差し込まれていた。

 無造作にそれを取って、ラベルを見る。

「………最悪………」

 振り返り、眠っているキラを見る。

 彼は今、此処に居る。

 それがどう言う事か、分からない訳ではない。

 部屋のロックが解除され、パソコンのロックも解除し、ディスクの読み込みロックまでも解除した。

 そんな馬鹿げた話がある訳もない。

 全てロックが解除されたのではなく、していなかったのだ。

 ディスクの何を見たのか分からない。

「さっきの謝罪はこれの事?」

 迂闊すぎた。

 この部屋の侵入までも許し、この部屋で休む事も許してしまった自分が憎い。

 関わってはいけない筈の存在なのに。

「運命とは、本当に残酷なのね」

 ディスクをケースに入れ、棚に置いた。

「潮時……かな」

 そろそろ、此処から降りる準備をしなければならない。

 そう、心の中で思った。