7年前のあの日。
私達は、答えてはいけない声に答えてしまった。
用意されていた航海図は水の中に沈み、白紙に戻された地図は島さえも描かれていなかった。
私達の旅は、あの時から始まっていたのかもしれない。
揺れる船の中、寝台で横になっている1人の少女が目を覚ました。
窓から漏れる太陽の光と、見渡す限り続く蒼い海と空。
少女は寝台から立ち上がり、外にいる連れの元へ行った。
連れの見詰める先には島がある。
これから向かわなければならない場所。
守るべき楽園。
「起きたのか、」
気配を感じ、肩越しに振り返る少年。
風を切って海面を進む船の上。
腰まである黒髪は風にさらわれる。
「はまだ寝ている。到着する頃には起きる筈だ」
「すまない、」
「気にしていないさ。髪を括ることが出来たら良いが、そう言う訳にもいかないからな」
少し後ろに振り返って見た先にいる、この船の船長。
「島に着けば、2人は学校に行くんだろ?」
「父さんに、報告をしなければならないからな」
「まだ、あの島は平和なんだな」
は僅かに微笑し、荷物を纏める為に中へ帰って行った。
総士は空を見上げた。
「あぁ……偽りの、平和だ」
◇ ◆ ◇
何時もと変わらない日常。
ただ、変わらない日常の中に2人の幼馴染がいないだけ。
時々送られて来る手紙を、繰り返し読み直す自分。
飾りのない水色の便箋は、微かな香りが染み込んでいた。
最近届いた手紙には、1枚のCDが付いていた。
東京へ行き、ひょんなことから歌手としてデビューしてしまったらしい。
絶対ありえないと思っていたのだが、数週間前にテレビに出たのを見てしまった。
あの日から、島中の子供は騒ぎになった。
「さてと、そろそろ行くか」
朝の仕事を終え、聴いていた曲を消して荷物を持った。
作業場に向かうと、父である史彦が陶器を作っている。
「………行って来る」
「あぁ」
後ろを通り過ぎ、棚に飾ってある母親と自分の写真を見て小さく笑う。
(行って来ます。母さん)
心の中で、そう呟いた。
島に到着すると、その足で真っ直ぐ学校に向かっていた。
だが、足はある公園で止まってしまった。
公園のほぼ中央にある木に触れる総士。
「あの時も……木の前だったね」
総士から少し後ろで木を見上げる。
総士は目を伏せ、昔のことを思い出す。
「全ては、あの時から狂ってしまった」
7年も前になる。
しかし、この7年はあまりにも短かった。
「総士、が早く学校に行けって言ってる」
「……そうだな。行こうか、」
「うん」
差し出された手を握り、2人は再び歩きだした。
自分達の通う、竜宮島中学校へ向けて。
学校に着いた時は授業が始まっていた為、生徒達と会うことはなかった。
校長室へと赴き、総士の父である公蔵に帰って来たことを報告する。
「今朝の便で帰って来たのか、総士、君」
「はい。CDCで報告書を入力していて、遅くなりました」
本当はもう少し早く帰って来られる筈だった。
しかし、報告書の入力に時間がかかり、予定を繰り下げて帰って来た。
まだ義務教育である中学生で良かったと、は心底安心している。
「ご苦労、色々と。勉強になったな」
2人は小さく頷く。
「彼は、どうしている?君」
「アルヴィス以外で出るつもりはないようですから、今は沈黙を守っています」
「彼にも、色々と無理を頼んでしまった。無論、君には倍の疲れが溜まっているだろうが……」
公蔵は重々しく溜息を漏らす。
そんな姿を見て、は苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
「今日という日は………特別な色になりそうだ」
「そうですね。では、私達はこれで」
校長室を出てると、授業終わりのチャイムが鳴った。
「終わっちゃったね」
「帰って寝た方が良いんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。これ以上休むと、ね」
東京に行っていることになってはいるが、実際に行った場所は違う。
とは言え、休んでいることには変わりはない。
優等生と言う言葉が似合う2人は、特に勉強しなくても良いのだが、授業を受けていない状況でテストをすれば悲惨なことになる。
教室に着いた2人はドアを開ける。
先に入った総士が何かとぶつかった。
「大丈夫?」
「あぁ……ごめん、よく見えなかった」
そう謝ると、総士とぶつかった果林はずれた眼鏡を直す。
「皆城君、ちゃん……帰ってたんだ」
「あぁ、さっき」
「ただいま、果林」
笑顔で言うと、果林も微笑んでお帰り、と言って落ちた本を拾い上げる。
それは衛が楽しみにしていた漫画の雑誌。
「東京どうだった?」
席に座って此方に話しかけてくる真矢は興味津々。
だが、実際東京に行っていない2人は一瞬言葉を詰まらせる。
「……結構、普通の所だった」
「えぇ!?有名人に会わなかったの?」
「私達がそういうのに興味ないって知ってて言ってる?真矢」
は苦笑いをしながら言った。
「何よぉ。は有名人に会ってるんでしょう」
「えっ?……あぁ、会った……かな」
「何だよ、それ。島中皆大喜びだったんだぞ?が芸能界デビューしたって」
「歌、上手かったもんなぁ。芸能界でも十分やって行けるよ」
笑顔で褒めてくれる友人達。
だが、同時にそれはの心を縛り付けるモノだった。
が無理に笑っていると、総士が幼馴染の姿がないことに気付いた。
「授業が終わった途端、近藤君と出て行ったわよ」
真矢が答えると、総士とは顔を見合わせ、同時に溜息を漏らした。
此処だけはまだ、変わらない日常を過ごしている。
「多分何時もの所だと思うから、行って来るね」
校舎の裏で2人は取っ組み合いをやっている。
無論、喧嘩ではない。
ただの力試しである。
だが、例え何度挑戦しようと剣司は一騎に勝ったことがない。
柔道をやっているにも関わらず、一騎に負けてしまうのだから悔しいだろう。
小走りで廊下を走り、校舎裏に出る玄関を出ようとした。
だが、不意にの第6感が何かを感じ取った。
耳鳴りのような音が頭の中に響く。
「まさ………か」
そんな筈がない。
まだ、此方の態勢は整っていないどころか、テスト段階で止まっているものすらある。
見付かる訳にはいかない。
まだ、まだ此処は見付かってはいけない場所なのだ。
『あなたは……そこにいますか?』
耳を傾ければ、そこで世界は終わる。
聞きたくもなかった、問いかけの言葉。
史彦は、作ったばかりの陶器を落とし、慌てて外に出た。
「見付かったか!」
見上げる空には何もいない。
学校のスピーカーから流れ出る歌。
聴いたことのない歌に、子供達は呆然とスピーカーを見詰めた。
保健室にいた弓子、職員室にいた先生達、教室にいた果林。
彼らは皆、この事態を察知して走り出した。
島の中にある食堂をはじめ、各家庭のテレビの電源がつき、画面にAlvisの文字が浮かび上がる。
それを見た大人達は、事態を重く見て走り出す。
「もう……見付かるなんてっ!」
『!』
頭の中で響く声。
は一度目を伏せ、大人達同様に走り出した。
すると、視界の端に誰かが飛び出て来るのが映った。
「うわっ!」
「っつ」
急なことだった為、避けることすら出来ず、ぶつかった弾みで後ろに倒れこんでしまった。
「だ、大丈夫………って、!?」
「な……に?」
ぶつかった相手。
それは、と総士の幼馴染である一騎。
「お前、真壁……一騎」
が探そうとしていた人物。
「?」
一騎が困惑の表情を浮かべる。
それを見た瞬間、頭に割れるような痛みが走った。
「痛っ」
「!?」
思わず頭を押さえ、脂汗が滲み出る。
一騎は慌てて膝を付き、顔を覗き込む。
は頭を押さえたまま、苦しそうな吐息を吐く。
「か……ずき…………早く、シェルターに行って……」
「シェルター?」
「……まだ、教室に………行けば間に合う……早く避難して」
よろめきながら立ち上がり、玄関に向かって一騎を突き放す。
「絶対教室行ってよ!!」
そう言い残して再び走り出した。
「!!」
遠くで、自分を呼ぶ声が聞こえたが止まることはしない。
止まってしまえば、守れなくなる。
約束を守る為にも、大切な人を守る為にも、この平和な時を、守る為にも。
「!こっちだ!!」
声のする方を見れば、総士が立っていた。
地下、アルヴィスへ向かう為の緊急エレベーター。
「…そぉ……し……」
「っ!?!?」
倒れ込むに驚き、慌てて腕を伸ばす。
寸でのところで腕を掴み、自分の胸に引き寄せた。
抱き締めた身体は小刻みに震え、顔を見れば少し青褪めている。
総士は眉を顰め、そのまま抱き抱えてエレベーターに乗り込んだ。
がこうなるのは珍しい。
しかし、その原因は分かっている。
エレベーターが地下へ降りて行くと、そっと床にを下ろして抱き締めてやった。
震える手が総士の服を握る。
時間にしてそれ程長くはない。
震えていた身体が治まり、握り締めていた手がゆっくりと解かれる。
総士はの背中を軽く叩いた。
「もう、大丈夫か?」
「……うん」
2人はゆっくりと身体を離す。
先に総士が立ち上がり、に手を差し伸べた。
「ありがとう、総士」
手を取り、ゆっくり立ち上がる。
それから胸に手を当て、大きく息を吐き出した。
「が………一騎と会っちゃった。一騎はのこと、知らない。危ないって思ったの」
「だから急に入れ替わったんだな」
「うん……ごめんなさい」
溜息を漏らしそうになった総士だが、それを堪えての頭を軽く叩いてやった。
気にするな、と伝えるように。
「戦闘になる」
「覚悟は出来てるよ、あの頃からずっと。もう、失いたくない」
の目は真剣だった。
エレベーターが目的の場所に着き、空気が抜ける音と共にドアが開く。
2人は同時にエレベーターを降りた。
始まる戦い。
壊れる日常。
平和な日々は時を止め、地獄の日々が再び時を刻む。
偽りの平和が、音もなく崩れようとしていた―――。